感度と解釈

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見えないもの

古代から私たち人間は、目からの情報に頼っています。

ですから、見えるものと、見えないものという2つに大きく分けられ、見えないものに対してはとても強い警戒感があります。

見えないものというのはいろいろあります。

人の目は、光の反射によって認識をします。

色は、太陽の光とその吸収によって残った色を色として認識するそうです。

暗闇など光がない場所では見えず
透明で光が反射しないものは見えず
モノの向こうにあるものは、透視でもできない限り見えず
現在より未来は見えず
形のないものは見えず
意識していないものは見えず

我々に見えるものも多いのですが、その一方で見えないものも多いのです。

見えないものの存在

見えないものであっても、そこに存在していることを私たちは知っています。

たとえば空気が見えなくとも、そこに空気があることを知っています。

ですから、見えないからといって、存在を否定できるわけではありません。

しかし、こうした「みえないもの」が科学などによって明らかになり、
共通の認識になっている場合に「存在している」という状態になります。

つまり、科学では証明できず、共通の認識になっていないものは、その存在は人によって異なるのです。

たとえば「お化け」は証明できませんし、「お祈り」も効果が証明できません。

「オーラ」は人の周りの状態を化学的な装置で見えるとされていますが、それが単なる温度の変化なのか「オーラ」なのかはわかりません。

科学も人が作った考え方なので、それで証明できたからといって存在が絶対的であるともいえません。

しかし少なくとも、人間の世界では存在を証明するために必要な考え方であるとは思います。

また、たとえ視界に入っていても意識しないだけで見えないものが多くあります。

こうした絵を見たときに得られる感覚の違いで、1つの絵がいろいろなものに見えます。

この絵は2つの絵に見えると言われますが、人によってはもっと多くの絵に見えるかもしれません。

同じものを見ていたとしても、人によって見ているものが違うということが存在します。

感覚と感度

何かしらの「チカラ」や「能力」があるという人もいます。

その人には何かが「見える」のかもしれませんが、それはその人以外ではわかりません。

ただ、人の感覚というのは五感以外にも存在するので、その感覚を研ぎ澄ますことで得られる「感覚」があるかもしれません。

「気配」や「直感」、「胸騒ぎ」などは科学では証明できないでしょう。

脳の科学も全く解明にはほど遠いわけですから、こうした感覚は科学で証明することは永遠にできないかもしれません。

こうした個人の「感度」はある種の能力なので、それは何かしら鍛えることができるはずです。

たとえば、日常生活を捨てて山の中で質素に何年も暮らせば、ある部分のそれなりの感度は強まるはずです。

ただ一方で何か別の「感度」は弱まっていくでしょう。

直感のようなものばかりが感度という能力ではないので、都会で暮らすための感度もあれば、危険な仕事や人間関係での感度というものも、やはり人がもつ能力です。

特殊能力などとも呼ばれるそうした感度の種類は無限です。

ですがその一方で、そうした感度の元はシンプルな1つの感度とも言えるのではないでしょうか。

1つの感度をどう磨かれるかによって、センサーの働く範囲や対象が変わってくるのかもしれません。

感度の解釈

感度は、ひとそれぞれに感じ方も違います。

感度の高い人が感じる感度と、それを見て感じる人の感度も異なります。

感度の高い者同士が話をすると、同じレベル感で話ができるので共感も生まれやすいでしょう。

ただ、そうした感度も、厳密には本人にしかわかりません。

言葉などの文字や定量的な数字で表すことが難しいものでしょうから、同じことを話しても完全に人と一致させることができません。

その感度に対して自らが気づき、それを自分なりの能力として認めることができます。

それはひとつの解釈です。

自らどう解釈するかで、それが善にも悪にもなり、能力にもなります。

何かしらの感覚があってもそれを自らの解釈で自分の認識にできなければ、それはただの感覚という事実です。

ですが一方で、自ら能力と解釈したものも、他人にとってはそうであると認識できないこともあります。

これも感度の解釈です。

みえないものとは

太陽が悪だと解釈することもできれば、善だと解釈することもできます。

これは善とか悪という見えないものへの解釈が人によって異なるからなのかもしれません。

善はかならず良く、悪は必ず悪いとは言い切れません。

善と悪という対立構造があるからこそ、善が良くなり悪が悪くなるのでしょう。

感覚的なものに白黒つけたがるのが人なのかもしれません。

一方、見えないものだからこそ、そこに不安や指針が欲しいために、人は何かしらの解釈を求めるのかもしれません。

宗教、占い、風水、風習、儀式・・・

古代では本気で呪いを信じ、現代でさえ、生け贄の儀式や虐待まがいの儀式をしている地域や民族もあります。

「雷は神様の怒り」であると解釈された時代では、儀式をすることで人の安心が得られたのでしょう。

実際にはそれで雷が止むはずもありませんが、それでも、その儀式が必要なのでしょう。

それは現代でもなお残る、終末論に対する煽りと同じです。

「明日、地球の終わりが来てしまうから、みんなでお祈りをして回避しましょう」

もし来なかったら・・・「終わりが来なかったのは、みんながお祈りをしたからだ」
もし来たら・・・「終わりが来たのは、お祈りが足りなかったからだ」

地球の終わりが来ると言っている人も、悪意のある場合もありますが、悪意がない場合もあります。

それはその人の感度と解釈であり、それを見た私たちが自分なりの感度と解釈を持って対応することが必要ではないでしょうか。

感度と解釈

人が持つ感覚は無限であり、解釈も無限です。

ですから、あらゆる解釈が存在するということです。

人が感覚から生み出した様々な解釈が、またそれを受け取る人の感覚と解釈によって、変化していきます。

そもそもが感覚なので絶対的ではないのです。

そうした感覚を人生に取り込んでいくことはあっても良いと思いますが、それらはルールではありません

何かに頼りたいときに参考にすることで良くなるのは、感覚の変化が起こったからなのでしょう。

外から得た感覚の変化という機会なので、また自らの感覚に戻して感じ解釈していくようにしないと、あたかもそれが正解かと勘違いしてしまいます。

正解と思い込み頼るということは、人の感覚と解釈を信じることですから、自分の感覚でも解釈でもありません。

別の人から見てみれば、また違った感覚と解釈が存在するのです。

ですから、自らの感覚と解釈を磨いていくということこそが、人生を豊かにするものだと思います。

人生には見えないものが多くあります。

むしろ、見えないことの方が多くあります。

ですから、感覚を研ぎ、解釈できるような自らの考えを持ち、
経験によって良い方向へ導けるようにしていきたいものです。

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